アート論2/中学生と大学生
私の大きなサイズで描いたアートは中学生が描いた絵である。
中学生は自らの感性を意識し、小学生(特に幼稚園)まで無意識に描いてたのを自発的に描いていくものと思われる。
事実私が中学生だった頃は私も周りも、みんなそうだった。
私の大きなサイズで描いた絵はそれに時折無意識が混じっているのもあると思われる。
それは「都会を練り歩く」の真ん中の男であったりその左の万歳をしている男であったり。
また中学生は新しい道具や単語に新鮮な気持ちでいられたり接したりすると思うが
前者の意識して無意識で描いてる気持ちは強いが後者の新鮮な気持ちは残念ながら私は強くない。
新鮮な気持ちで接しられた時、私のアートはもっと新鮮な気持ちで見ていられるのだろう。
そしてあのラーメンの絵よりそれ以上にもっと光り輝くのだろう。
また私のアートの一部は大学生でいたい。
大学生は今までの自らの経験のさらに上に行き、
自分の感性を鋭角に物理的、論理的に実践する事が出来るのだろう。
全ての大学生は自らの無意識とあやふやさを解放し、鋭角に物理的・論理的に事を表現しなければならない。
私のアートの一部もそれであるべきだ
一見無茶くちゃであるように見えそれは大学の論文であるように新しい論理・新しい理論で作られた新しい世界である。
その大学の論文でもある新しい論理・新しい理論・新しい物理で作られた世界が一見無茶くちゃに見えるのは当然だ。 新しい世界なのでまだ脳が認識できてないからだ
私がそれを出来た時、今以上にさらに強く新しい世界を構築する事が出来る。
そして新しい論理・新しい理論をタカが外れた時新しい物理が生まれた新しい世界を作ることができる。
私のそれら3つが表現できた時、それはもうアーティストとしての立派な社会人だ