20101209 森村泰昌対談@東京藝術大学
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投稿日 | 2010年12月11日 17:53 |
藝大に、別の用で行ったら、
偶然、やってました~。
元来、学生の講義の一環なんでしょうが、
入ってもいいとのことだったので、
思い切って、聞いてきました!
森村泰昌さんといえば、
モナリザやターバンをまいた少女などの
絵をモチーフに、自分が実際に仮装して、
そっくりの写真を撮るという手法で活躍中の
現代アート作家さんですね。
生前、母が大好きだった作家さんですが、
私はあまり、、、(苦笑)
なので、きっと母が聞きたかったのでしょう。
14:10-16:50という長丁場で、
私は残念ながら、最後の一時間余りしか聞けませんでした。
講義は、現代写真論のくくりで催されたもので、
ちょうど、映像作品 ”私は、独裁者にはなりたくない”という
ヒットラーをパロッたものを見ることが出来ました。
初めのうちは、ドイツ語などをもじってお笑いモード。
私には、笑いと表裏のヒットラーの悲哀が感じられました。
その後、核心の訴えたいことへ(詳細は割愛)。
森村さんは、カタチはどうであれ、
(藝大の前での街宣活動でも(笑))
社会に訴えかけるということは、
自分に向けていることだと。
まず、自分に突き立てることを経由、
ステップを踏むことで、
社会・ひとに投げ返されるものだ、と。。。
さらに、、、
ヨーゼフ・ボイスの言葉
”芸術家が一人でバカをやっていても仕方ないのです”
を引き合いにして、
アートの経済活動についても話がありました。
孤独の領域に閉じ篭もることは古い
と言っていたボイスですが、
あなた自身、孤独に入り込んでいたのではないか?
というのが、森村さんの意見。
以前、ジョセフ・コーネルのことを書きましたが、
この人は、篭りっきりだった。
私は、要はバランスだと思いました。
つまり、自分へ向けての制作活動が第一義だとしたなら、
その延長に、他者に見てもらいたい、
認められたいという欲も出てくるかもしれない。
ただ、本当に自分が没頭し、楽しんだり、苦しんだりしたものなら、
生きている時には、認められないとしても、
必ず誰かが見つけてくれると、理想論でも信じたいです。
以前書いた若冲の言葉 ”具眼の士を千年待つ”
つまり、私の作品を理解してくれる人が出てくれるまで、
いつまでも待ちますよ、という決意表明。
作り手は、必要以上に、人の目を気にしては、
いいことはない気がします。
出来る限り、孤独の領域に閉じ篭もって欲しいです。
どうにか、見つけ出しますから(笑)
でも、せめてどこかで、
展覧会はしてくれたら、嬉しいです。
あと、デジカメとフィルムのカメラの違いについて。
今昔で優劣を語るのではなく、
変わっていっていることが大切だと。
デジカメは、仮想の面白さ。
フィルムは、現実を切り取る面白さ。
写真は、時間を凍らせる(フリーズ)ので、”死”
対し、映像は、時間的に”溶ける”という話も面白かった。
一番考えさせられたのは、
三島由紀夫の割腹自殺の事件の作品について。
この事件は、1970年に起き、
森村さんが、19歳だったそうです。
思春期で、かなり強烈だったそうです。
最近、この作品を作ったのは、
やっと、自分の中で、この事件を表現する
”ボキャブラリー”が出来た、
つまり、表現方法を確立出来たからだそうで、
ずっと宿題だった、と。
やっと、自己回復できた、とおっしゃってました。
これこそ、自分に向けての作品!!
そこに、嘘偽りや、
人に見せたいという見栄、虚飾はないと思いました。
ゆこもりが、前から言っている
”原風景”
その人にしかない、その人ならではのもの、こだわり。。。
こういう作品を見たいものです
とても示唆に富んだ対談でした